スロボドネの情熱
スロボドネの情熱
スロボドネには、「繁栄の時代」と、「つらい過去」、そして「情熱」がある。
スロボドネのワイン造りの起源は、今から100年以上前、1912年に現在の農地を購入したことに始まる。当時の祖先は購入した地所で、ぶどう栽培、林業、麦や大麦の栽培、そしてタバコの栽培などを行い、合わせて300haもの農地を所有していた。特にタバコでは、中央ヨーロッパで最大のタバコ乾燥場を持っている程であった。私も見学させて頂いたが、2階建てのとても大きな建物で、近い将来この場所で、東ヨーロッパのナチュラルワイン生産者が勢揃いするサロン(大試飲会)を開催したいと夢を語っていた。ワイン造りは1920~30年代に行われており、現在のチェコ共和国の首都であるプラハでは広く飲まれていて、「3人のボクサー」というブランド名でとても親しまれていた。
しかし、第2次世界大戦時旧ソ連軍のスロバキア侵攻により、1945~89年の間共産党の支配下となり、スロボドネの地所も接収されてしまった。曾祖父の時代に家族は再びスロボドネの地所に戻ってきたが、農地の余りの荒廃ぶりに誰も再び農業を始めようとは思わなかった。祖父もまた農業を望まず、好きな音楽の道に進み、後に音楽学者となった。
共産党が退いた後、祖母がたまたまワイン醸造所にある建物の中で古い書物を発見した。何とその書物には、以前行われていた農業やワイン造りについての記述があったのだった。父と母は全く農業についての知識がなかったのだが、荒れ果てた農園を再興する決意をしたのだった。両親は農園の再興に成功し、今の世代となる長女カタリナらがこの農園を引き継いだ。カタリナらもやはり農業について勉強したこともなかったのだが、発見された書物を手掛かりに、先祖が行っていた農業を蘇らせていったのだった。
1995年、父は40年以上にも渡る共産党支配の後、ひどく荒廃したぶどう樹の栽培を再び始めることを決意した。同時にワイン造りも始めたのだったが、それは家族や友人達に振る舞うものとしてであった。父は小さい頃先祖がワイン造りをしていたのを見ていたので、ワイン造りが好きだった。そんな父を見て育ったカタリナ達は、2010年、自分達が造ったワインを始めて市場で販売することにした。初年度だけはコンサルタントを雇ったが、それ以降は自分達だけでワイン造りをした。
最新のワイン造りに隠れた”理由”
現在ドメーヌでは、長女カタリナがオーナーとして、夫ミゾがワイン醸造を、妹アグネスが畑を主に担当し、運営されている。彼らは先祖代々続けられてきたワイン造りの伝統に深い関心を抱いていて、それが逆に最新のワイン造り、例えば「オレンジワイン」や「アンフォラ」を用いたワイン造りへと繋がっている。100年前からこの地”ゼミアンスケ・サディ”にて先祖たちが行ってきた「テロワール」に基づいたワイン造りを辿ってきた結果、ここに行き着いたのだ。
”ゼミアンスケ・サディ”で自分たちが栽培したぶどうだけを用い、”ゼミアンスケ・サディ”のテロワールが詰まったぶどうの果皮を漬け込んだ「オレンジワイン」を醸し、”ゼミアンスケ・サディ”の土で焼いた「アンフォラ」に自分たちのぶどうを入れ、”ゼミアンスケ・サディ”の森で育った自分達のドメーヌの木を製材し造った「樽」の中でワインを育てるのだと、、etc.
「鳥男」凄い勢いで進化を続ける!
共産党の支配と農地の接収、そして荒廃した農園の再興という困難を経て、スロボドネ・ファミリーのワイン造りへの強い想いをヒシヒシと感じる。
また研究熱心な夫ミゾは、試験的なワインも次々と生み出し、今までなかった美味しさのワインがドンドン登場している。
特に、今回ご紹介する「エッグスタシー」は、登山が好きなミゾの哲学が詰まっている。
どうぞ、”スロボドネ”ワールドを、「見て」「知って」「味わって」、ご堪能ください!
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